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  • 聖書はいつ頃できたのですか?
    聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。「旧約聖書」の中には、39の文書が収められています。そのぞれぞれが、別々に書かれて、後から集められたのです。そのうち古いものは、だいたい紀元前1300年頃から、新しいものでも紀元前300年頃までに書き記されてきたと言われています。これは日本では、縄文時代~弥生時代になります。 一方「新約聖書」は、27の文書が収められており、これらはいずれもイエス・キリストの昇天後から1世紀の終わりまでに書き記されたものが集められています。ですから、とても古いものです。
  • 聖書は誰が書いたのですか?
    今述べたように、聖書は長い間に書かれたいくつもの文書が集められたものですから、一人で書いたものではありません。しかも、その筆者が誰であるかということは、分かっている文書もあり、よく分かっていない文書もあります。たとえば、旧約聖書では、「詩編」という詩が集められた文書がありますが、その中には「ダビデの歌」と書かれているものがあり、これはイスラエルの第2代目の王のダビデが書いたということが分かります。また、「イザヤ書」「エレミヤ書」などというのは、それぞれ預言者イザヤ、預言者エレミヤが書いたということが分かります(異論もありますが)。しかし、「創世記」のように分かっていないものもあります。 新約聖書では、だいたい分かっています。「マタイによる福音書」「ルカによる福音書」といった福音書や、「ヨハネの手紙」「ヤコブの手紙」など、人の名前が冠せられたものは、その人が著者です。また、「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」などの13の手紙は、初代教会の伝道者である使徒パウロが書いたものであることが、手紙の中の署名から分かります。
  • 聖書は「神の言葉」であると聞いたことがありますが本当ですか?
    本当です。 しかしそれには説明が必要です。今述べたように、聖書の中の文書にはそれを書いた人がいます。ということは、人が書いたのです。しかも特に霊能力があるだとか、修行を積んだ人が書いた、というものでもありません。私たちと同じように、間違いもおかすし、失敗もする、そういう普通の人が書いたのです。もちろん神さまを信じている人には違いないのですが。 そうすると、そのように人が書いた書物が、なぜ「神の言葉」となるのか。それは、主イエス・キリストをあかしするものとして神の言葉となるのです。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネによる福音書5:39) 最初教会の中には他にもさまざまな文書がありましたが、今の聖書が聖書として残されたのは、神の御心にかなうものだけが自然に選ばれていったのです。これを「聖霊の導き」と言います。 そのように、イエス・キリストを証言するものとして、また神の御心にかなうものとして、そして聖霊によって啓示されたものとして、聖書は神の言葉なのです。
  • 聖書を買いたいのですが、どこで売っていますか?
    大きな本屋さんであれば、たいてい売っていると思います。また売り場になくても、取り寄せてもらえます。あるいは、キリスト教の専門書店というのがあります。そこでは必ず売っています。キリスト教書店の住所等は、日本聖書協会のHP等でお調べになると良いでしょう。また、たいてい教会でも分けてくれます。 https://www.bible.or.jp/purchase_bookstore.html
  • 聖書にもいろいろあるようですが、どれを選べばよいのでしょうか?
    そうですね、日本語で出版されている聖書で、おもなものは、口語訳聖書、新共同訳聖書、新改訳聖書、文語訳聖書、現代訳聖書、などがあります。このようにいろいろありますが、日本語への翻訳者が違うだけで、内容が違っているわけではありません。ですから、一人で読む分には、今掲げた聖書ならば、どれを読んでも良いでしょう。 ただ、ご自分が通おうとしている教会があるならば、その教会で使用している聖書を選ぶのが良いでしょう。というのは、たいてい教会では、礼拝などで使用される聖書が決まっていますので、それと同じものを持った方が便利なのです。
  • 分厚い聖書ですが、その中には読みにくい個所もあります。どこから読み始めたらよいでしょうか?
    あなたの興味を引くところから読み始めたらどうでしょうか。はじめからすべてを読み通さなくてはならないというものではありません。ただし、新約聖書の「福音書」は、必ず読むべきです。イエス・キリストの生涯の働きについて書かれているからです。また旧約聖書では、「創世記」は読んだ方がよいでしょう。あとは、慣れるまで、興味のあるところを読めばよいでしょう。 とにかく、まずは聖書に親しむことです。「全部読もう!」と意気込んで読み始めて、途中で投げ出してしまっては、なんにもなりません。おもしろそうな所をまず読むのです。だんだんその魅力が分かってきたら、聖書の最初から最後まで、通読することをお勧めします。
  • 教会の礼拝は、信者でない人も行っても良いのですか?
    もちろん、O.K.です。
  • 「神父さん」と「牧師さん」は、どう違うのですか?
    「神父」というのは同じキリスト教でも、カトリック教会の教職のことです。また「牧師」というのは、プロテスタント教会の教職者のことを言います。 違いはいろいろありますが、カトリックの「神父」さんは、男性に限られています。しかも結婚をしません。独身です。しかしプロテスタントの「牧師」は、女性でもなることができますし、結婚もします。 私も時々町の人から「神父さん」と呼ばれることがありますが、私たちの教会はプロテスタントの教会ですので「牧師」であり、妻も子供もいます。
  • 教会の礼拝では入場料を取られるのですか?
    入場料はいりません。 つけ加えておくと、礼拝のプログラムの中に「献金」があります。これは神さまへの感謝のしるしで金額は本当に自分の自由意志で決めるのです。ですから、ご用意がない方、献金したくない方は、しなくてもよいのです。
  • 教会というのは、「聖書の話を聞きませんか?」と言って1件1件家を訪問して、何か絵のかいてあるパンフレットを売る団体ですか?
    いいえ違います。それは「エホバの証人」(ものみの塔聖書冊子協会)という団体で、教会とは全く関係ありません。当教会では、そのような戸別訪問はしておりません。
  • 「日本キリスト教団」(日本基督教団)とはどんな団体ですか?
    「日本キリスト教団」(登記上は「日本基督教団」)とは、1941年(昭和16年)に、それまで日本に存在した多くのプロテスタントの教派が合同して成立した、宗教法人です。2000年度の教会数は1,730、信徒数は約20万人で、日本では最大のプロテスタントの教派です。
  • 同じ「日本キリスト教団」の教会でも、教会によってずいぶん違うように感じられますが。
    たしかにそうですね。 その理由は、一つには、先に述べたように、日本キリスト教団内の教会は、もともと第2次大戦前はさまざまな教派に分かれていたからです。それが昭和16年に合同したのです。それまで存在した教派としては、「日本メソジスト教会」「日本基督教会」「日本同盟基督教団」「日本組合基督教会」「福音ルーテル教会」「きよめ教会」「日本バプテスト教会」「ペンテコステ教会」‥‥など、30余派がありました。大戦後、日本キリスト教団から離脱した教会も多くありましたが、とどまった教会も多くありました。ですから、教会によって戦前の教派の伝統を残しているところも多くあるのです。そういう伝統の違いによるものです。 第二には、日本キリスト教団は、どちらかというと、各教会の独自性が強いと言えます。本部の命令一つで統制されている団体ではなく、各教会が役員会を組織して意志決定をし、教会を運営しているので、教会によって独自色が出てくる部分があります。例えば、正典としての聖書に対する姿勢、使用している讃美歌、牧師の説教、礼拝堂の中の様子、など、違いが目立つ点も確かにあります。
  • いろいろ教会がありますが、どこの教会に行けばよいのか分かりません。
    まず大切なことは、それが「キリスト教会」であるかどうか、ということです。看板だけみると「キリスト」の字が入っていたりしても、実際にはキリスト教ではないものがあります。異端ではない、正統的なキリスト教会とは、三位一体(さんみいったい)の神を信じ、「使徒信条(しとしんじょう)」、「ニケア信条」(または、ニカイア信条)等の、古代教会の基本信条を重んじているものです。このことはそこの教会の牧師に聞かなければなかなか分からないことかも知れません。 次に、その教会が聖書を神の言葉として大切にしているかどうかです。「聖書は誤りの多い神話であり、参考書に過ぎない」とか、聖書以外の書物を聖書と並ぶ重要な書物としているような所は、やめた方がよいでしょう。 なかなか分からなければ、キリスト教放送局FEBCなどでも、適当な教会を紹介してくれますから、そちらのホームページにアクセスされると良いでしょう。 キリスト教放送局FEBC リンク http://www.febcjp.com/church_shoukai/church/
  • 私が行った教会では、「洗礼を受ければ必ず病気は治る」と言って、無理に洗礼を受けさせられたり、やめようとすると、「うちの教会を辞めてひどい目にあわなかった人はいない」と言って脅かすのですが。
    それはまともな教会ではありません。キリスト教の看板は掲げていても、キリスト教ではない、詐欺かもしれません。また「うちの教会を辞めてひどい目にあわなかった人はいない」という言葉は脅迫のようにも聞こえます。一刻も早くそのようなところは辞めることをお勧めします。そして普通の教会へ行かれることをお勧めします。
  • 礼拝に行くには何か持ち物が必要ですか?
    はじめての方でしたら、特に何も必要ありません。礼拝では聖書や讃美歌を使いますが、教会備えつけのものがありますので、それを使うことができます。
  • 礼拝の長さはどれぐらいですか?
    これは教会によって若干異なりますが、当教会では聖餐式や洗礼式がない時は約1時間ほどです。聖餐式や洗礼式がある時は、もう少し長くなります。 
  • 礼拝の中の「献金」とは何ですか? また、いくらささげたらよいのですか?
    献金とは神さまにささげるものです。神さまへの感謝や、神さまに自分をささげるしるしという意味もあります。ですから、神さまにささげるという気持ちのない方はささげる必要はありません。また金額は決まっていません。それぞれが神さまに心を込めておささげするものであればよいのです。はじめての方は、特に気になさる必要はありません。
  • どうして讃美歌を何曲も歌うのですか?
    この世の思いわずらいを神さまにゆだねて、心を神さまに向けるためです。また、讃美歌をうたうことは神さまの御心であり、賛美の歌をうたうことによって神さまの前に出るように招かれているのです。 「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」(詩編100:4)
  • 「聖餐式」とは何ですか?
    聖餐式とは、イエス・キリストの最後の晩餐に由来するもので、キリストの十字架と復活の恵みにあずかるしるしです。イエス・キリストを信じ、キリストにつなげられていることを証しします。パンとぶどう酒(もしくはぶどうジュース)をいただきます。パンはキリストの体、ぶどう酒はキリストが十字架で流された血を指し示しています。それは私たちがキリストの十字架と復活の恵みによって、神の国に加えられていることを宣言するものです。当教会では、月に1回、聖餐式を執行しています。
  • 聖餐式はだれでも受けられるのですか?
    聖餐(パンとぶどう酒)は、洗礼を受けた人、もしくは幼児洗礼を受けた後に信仰告白式(堅身礼)をした人が受けることができます。洗礼を受けていない人は、聖餐にあずかることはできません。しかし、洗礼を受けている人であれば、どこのキリスト教会(教派)に所属している人でも受けることができます。
  • 洗礼とは何ですか?
    洗礼は、イエス・キリストを信じて従っていくことを決心したら教会に申し出て、受けます。古い罪の自分がキリストと共に葬られて、復活のキリストと共に新しい歩みをはじめることです。また、教会に加わるという意味もあります。
  • 神はいるのですか?神がいるようには思えません。
    います。そのように信じています。また、神がいるとしたならば、どんなに私たちが「神はいない」と思ったとしても、いるということになります。逆に、もし神がいないとすれば、私たちがどんなに「神はいる」と思ったとしても、いないということになります。そして教会では、「神はおられる」と信じているのです。
  • 神を信じるなどということは、弱い人間のすることではないですか?
    たしかにそういうことになるかも知れません。しかし、そこで考えてみたいのです。「わたしは本当に強いだろうか?」と。実は自分が「弱い」存在であると気がついたとき、神との出会いの始まりがあると言えます。
  • 神社の神様とキリスト教の神様とは違うのですか?
    違います。しかし、そこで「神を求める」という人間の気持ちは同じであると言えます。
  • キリスト教は「一神教」ですね?
    違います。キリスト教はユダヤ教やイスラム教のような意味での「一神教」ではありません。正確に言えば、キリスト教は「三一(さんいち)神教」ということになるでしょう。神はお一人であるとたしかに聖書に書いてありますが、その神は単一の存在ではなく、「父・子・聖霊」からなる「三位一体(さんみいったい)」の神だと信じています。
  • なぜ教会は、神さまだけではなく、イエスという方を信じているのですか? 神さまだけで良いのではないですか?
    教会は、神さまと、私たち人間の間を取りもってくださる方として、イエスさまを信じているのです。全く清く、善である神と、私たち罪深い人間とは、あまりにも違いすぎ、大きな断絶があります。私たちは、どうしたら神のところに近づくことができるのかも分かりません。しかし、イエスさまがそれを明らかにしてくださいました。神とわたしたちの間に入って、私たちを神さまと引き合わせてくださったのです。
  • 人間であるイエスが、神の御子であるとはどういうことですか?
    その表現には、ちょっと注意が必要です。人間であるイエスが神の御子になったのではありません。神の御子であるイエスが、人としてこの世に来られたのです。聖書にこう書かれています。 “キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(フィリピ2:6-8)
  • なぜ神の子が人間になったのですか?
    それは、滅び行く私たちを救うためです。私たちが人間であるがゆえに痛み、苦しみ、悩む‥‥そういう痛みや苦しみを、人間となられたゆえに理解し、共にすることがおできになるのです。イエスさまの十字架は、私たちの苦しみ、私たちの死を、代わりにになわれたのです。そのように信じています。
  • 神様がいるなんて、信じられません。どうしたらよいのでしょうか?
    「神様を信じられない」というのは、あなたの思いですよね。つまり、実際に神様がいるかどうかは別として、あなたは神様を信じられないということですよね。聖書は、実際に神様がいると宣言し、神様の働きを証しする書物です。まずこの聖書を、虚心坦懐に読むことです。聖書に次のようなみことばがあります。"実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。"(ローマ10:17) それからどう思うか、また感想を聞かせてください。
  • 奇跡というものが信じられません。
    まず、「奇跡」というものをどうとらえるかです。奇跡というと、摩訶不思議な超常現象だと考えられていますが、キリスト教では、神様のなさる業が「奇跡」なのです。たとえば、あなたという人間が今生きているということも、奇跡です。なぜなら、神様があなたという人間に命を与え、生かしていてくださると考えるからです。そう考えると、自分という人間が今ここに生きて存在している、ということも実に不思議なことであることが分かってきます。 当然といえば当然なのですが、聖書には様々な「奇跡」が書かれています。多くの人は、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したりなさったことを奇跡だと考える。もちろんそれも奇跡です。神様でなくてはできないことだからです。しかし同じように、この宇宙が存在しているのも奇跡です。いろいろな不思議に満ちています。それも神様の造られたものだからです。花一輪を見ても、実に不思議に見えてきます。それも神様の造られたものであるからで、その意味では奇跡なのです。 そう考えると、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したり、水の上を歩いたり‥‥そういうものだけが不思議だと考える方が間違っていることが分かってきます。私たちは神様の造られた世界の中で、神様の働きに囲まれている。つまり、実は、神様の奇跡が満ちている中で、生かされているのです。ですから、聖書から言えば、奇跡を否定したら、この世界もあなたも存在していないことになります。
  • 一神教の偏狭さに比べて、日本は多神教なので寛容であるという人がいますが。
    たしかに一部の文化人によって、そのようなことが言われます。しかしそこには大きな誤解があります。また、「多神教は、他の神さまを認めるから寛容である」と言いますが、かつて日本に非寛容な時代があったことを忘れています。たとえば、明治維新後には「廃仏毀釈」ということが行われ、仏教が弾圧されました。また、先の満州事変~太平洋戦争に至るまでの歩みの中で、日本政府は朝鮮のキリスト教会に神棚を作ることを強要し、まずそれを拝んでからでないと礼拝を始めさせませんでした。そのようなことがあったのです。今でも、たとえばいろいろな宗教の人がいるにもかかわらず、全員が払う町内会費から神社に分担金を納めているケースが多いのではないでしょうか。これは必ずしも寛容とは言えないと思います。したがって、多神教だから寛容であると言うことはできないでしょう。 次に「一神教は偏狭」という言い方です。キリスト教は一神教ではありませんが、少なくとも主イエス・キリストの博愛の教えは、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という言葉にその頂点があるように、寛容の精神です。この「敵」という中には、もちろん異なる宗教の人も入っているわけで、そういう人も愛し、その人が自分を迫害したとしても、祝福を祈ってあげなさいとおっしゃるのです。 また現代のキリスト教国では、ほかの宗教の自由が認められています。
  • キリスト教会は、かつて十字軍のような戦争行為に手を貸しましたが、それは誤りではないのですか?
    誤りです。聖地を奪回するために軍隊を派遣して暴力を働くなど、無抵抗のまま十字架にかけられた主イエスをふたたび十字架にかけてしまうような行為です。この中世の十字軍について、当事者であるカトリック教会は、2000年にローマ法王が正式に誤りを認めて謝罪をしました。同じ過ちを繰り返してはなりません。
  • 宗教は、お互いに争うのではなく、仲良くすべきではないでしょうか?
    まったくその通りだと思います。
  • キリスト教もいろいろな教派に分かれているようですが、どんな教派がありますか?
    たしかにキリスト教にもいろいろな教派があります。大きく言うと三つに分けることができます。①カトリック、②東方正教会(ギリシャ正教)、③プロテスタント です。そして、プロテスタントはさらに、ルター派、改革派、メソジスト派、長老派、バプテスト派、会衆派、ペンテコステ派、などに分かれて存在しています。当教会の属する「日本基督(きりすと)教団」もプロテスタントに分類できます。日本基督教団については、先述したとおりです。
  • どうして教派に分かれたのですか?
    それは教会の長い歴史の中で、分かれていったものです。教会は最初は一つでした。教会は、イエスさまが天に帰られたあと、120名ほどの弟子たち(女性もいました)が一つになって集まっているところに聖霊が降ったことによって、教会が誕生しました(使徒言行録2章)。その後、教会が世界に向かって発展していくに従って、教義や習慣にばらつきが出てきました。そして、教会が誕生してから千年後の1054年に、聖霊の教理やローマ司教の首位権、習慣の違いなどをめぐって、東方教会(ギリシャ正教)と、西方教会(ローマ・カトリック)に分裂しました。 そしてそれから約500年後、西方教会の中で、「贖宥券」(免罪符)の問題をきっかけにして、ローマ法王の首位権、聖書の権威の問題、教理の問題をめぐって、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが「95箇条の提題」を発表して教会改革運動が始まりました。そしてルターがローマ法王から破門され、独自の教会を形成していったのを皮切りに、その後カルヴァンやツヴィングリなどの宗教改革者が次々と活躍し、ローマ・カトリックに属さない新しいプロテスタント教会が生まれていったのです。
  • 教派は対立しているのですか?
    たしかに、宗教改革期やその直後など、不幸にして激しく対立した時代もありました。また、教派の違いを口実にして、権力者が戦争をした(実際の動機は教派の違いではないと思われますが)時もありました。しかし現在は、そのような対立の時代を反省し、むしろ同じ神、同じキリストを仰ぐ兄弟姉妹として、共に祈り、教会の一致を目指す運動がなされるようになりました。ですから現在は、対立ではなく和解と共同の時代を迎えていると言えます。
  • 教派にはどういう違いがありますか?
    この質問は、いろいろな習慣の違いなどをていねいに答えると非常に長い答になりますが、大まかなところだけをお答えすると、だいたい次の通りとなると思います。 まず違いではなくて、共通することを述べた方が分かりやすいでしょう。キリスト教各教派共通のことは、まず同じ方を礼拝しているということです。すなわち、同じ神さま、同じキリスト・イエスさまを信じているということです。また、正典である聖書も同じです。翻訳はいろいろありますが、旧約聖書と新約聖書を正典としているという点では同じです。さらに、基本的な教理も同じです。それは、「基本信条」と呼ばれる「使徒信条」や「ニケア信条」などが共通しているということです。 次に、違っている点をあげます。まずプロテスタントとカトリックの違いですが、ローマ法王(教皇)を教会の指導者としているかどうかが違います。カトリック教会はローマ法王を教会の最高指導者としていますが、プロテスタントは認めていません。また、聖母マリアについての考え方が違います。カトリックでは、マリアの「無原罪懐胎」や「被昇天」の教義がありますが、プロテスタントはそれを認めていません。カトリックにはマリアへの祈りがあるのに対して、プロテスタントではマリアへの祈りというものはありません。また、「サクラメント」(聖礼典)の数が違いますし、カトリックでは聖職者は独身ですが、プロテスタントでは結婚を認めているというような違いもあります。その他、いろいろな習慣の違いもあります。 さらにプロテスタント各教派における違いは、制度が違ったり、洗礼に対する考え方が違ったり、お祈りのしかたが違うなど、どちらかというと細かい点が違っていると言えます。
  • どの教派を選べばよいか分からなくなってしまいそうですが‥‥
    そうですね。でも、一部の「異端」(「統一協会」や「エホバの証人」など)を除いて、イエス・キリストを信じることによって救いを得るということは同じです。そして、教派の違いとは個性の違いのようなものだと考えることができます。ですから、いくつかの教派の教会に行ってみられて、そしてご自分に合うと思われる教派の教会を選べばよいのではないでしょうか。
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