「善をもって悪に報いる」
心しておくべき言葉
【プロジェクター①】
テサロニケの信徒への第1の手紙をこの礼拝で読んで参りました。そして最後の5章に入り、この説教もすぐに終わるかと思われた方もいると思いますが、だんだんと説教で扱う聖書箇所が短くなってきました。スピードダウンしてきたわけです。そして本日は、この一節のみを取り上げさせていただきます。
なぜこの一節だけを取り上げるのか。一つには、これはその前の箇所の、12節から14節の前半までが、教会内の兄弟姉妹に対してどうするべきかを記していたのに対し、14節後半とこの15節は、教会の外の人を含めたすべての人に対してどういう態度でいるべきかを教えているということがあります。
そしてもう一つの理由は、この言葉がキリスト信徒がこの世で生きて人と関わっていく時に、心しておくべき大切な言葉であると思うからです。そしてこの言葉は、キリスト信徒がどのようにふるまうかという行動の考え方をまとめて言ったような言葉であると思うからです。
例えばイエスさまが山上の垂訓でおっしゃった言葉にも見ることができます。
【プロジェクター②】
(マタイ5:44)「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
この言葉は、聞いている者の胸を打ち、悔い改めの念を起こさずにはおられない言葉です。 あるいは、
(マタイ5:39)「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これも同様で、私たちの心を揺さぶり、自らを省みざるを得ない言葉であると思います。そのような主のお言葉を思い出しつつ、あらためて本日のみことばをもう一度読んでみます。
「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善をおこなうよう努めなさい。」
この言葉は、真面目に聞いたなら、胸を突き刺す言葉ではないかと思います。自分はどうだろう、自分はこうしていなかったと胸が苦しくなるような思いがいたします。非常に実行するのが難しい言葉です。なぜなら、ふつう私たちは、誰かからひどいことをされたり言われたりしたら、必ず仕返しをしたくなるからです。私たちは「やられたら、やり返せ」というような考え方が自然に身についているからです。ひどいことをされたり言われたりしたら、何倍にもして仕返しをしなくては気が済まないようなところがある。怒りで心がいっぱいになるからです。にもかかわらず、使徒は「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」という。なぜそんなことができるのか? なぜそんなことが可能となるのか? 同じようなことを、使徒パウロはローマの信徒への手紙12章19~21節に書いていますので、そちらも読んでみましょう。
【プロジェクター③】
(ローマ12:19~21)”愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。”
このみことばは、一見、相手の悪に対して神様に復讐してもらえ、と言われているように読めます。神様によって仕返ししてもらうことを進めているので、結局仕返しをするんじゃないかと。しかし、このみことばは、では実際にその通りにしようとすると、大きな決断が必要なことに気がつくでしょう。なぜなら「自分で復讐せず」とあるからです。神さまを信じるしかない。神さまにお任せしろと言うんです。そしていざ神さまにお任せしようとすると、任せることができないで、相変わらず相手に対して悪感情を持っている自分を発見するでしょう。そして、このみことばの通り、本当に神さまにお任せしようと祈ると、だんだんと相手に対する怒りや悪感情が消え去っていくことが分かる。そういうみことばです。
ヨセフの物語(創世記37章~)
そして、今日の旧約聖書のみことばをもう一度読んでみましょう。
【プロジェクター④】
(創世記50:19~20)「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
これは、イスラエルという名前を神さまからいただいたヤコブの子、ヨセフの言葉です。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」 神さまが悪を善に変えてくださったと言っています。神さまが、と。そこにポイントがあります。このことを味わうために、ヨセフの物語を簡単に振り返ってみましょう。
【プロジェクター⑤】
ヨセフという人は、ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の息子のうちの11番目の子でした。そしてお父さんのヤコブからたいへんかわいがられました。それが兄たちには面白くなかったのです。またヨセフは、父や兄たちが自分の前にひれ伏すようになるという夢を見ました。それは将来のことを予言する神さまが見せた夢だったのですが、兄たちはそんなことは知りませんから、ますますヨセフは生意気だということで憎むようになる。
そしてヨセフが17歳の時、お兄さんたちはヤコブを奴隷として売ってしまおうとする。実際にヨセフが奴隷として売ったのは兄たちではないのですが。兄たちがヨセフを地面の穴に放り込んで食事をしている間に、ミディアン人の商人たちがヨセフを見つけて引き上げ、奴隷としてエジプトへ売ってしまいました。それで、ヨセフの兄たちはヨセフがどうなってしまったのか分からない。父のヤコブには、ヨセフが獣にかみ殺されて死んだことにしました。
さて、そして奴隷としてエジプトへ売られたヨセフは、エジプトの王ファラオの侍従長であるポティファルに買われました。遠く見知らぬ国に、言葉も通じない外国に奴隷として売られて、どんなにヨセフはつらく苦しく寂しかったことかと思います。しかし、ヨセフは主のお守りによって、主人であるポティファルの信頼を得るようになり、家のすべての管理を任せられるようになりました。
ところが、詳細は省きますが、ポティファルの妻によって罪をなすりつけられ、監獄に入れられてしまいました。やってもいない無実の罪を負わされて、どんなに悔しかったことかと思います。ところがここでも主のお守りによって、監獄の看守長の信頼を得て、監獄の管理をすべて任せられるようになりました。
そこに、王の給仕長と料理長が王の怒りを買って監獄に入れられてきました。そして彼らが夜夢を見ます。ヨセフはその二人の夢を解き明かしました。そして給仕長に、あなたがこの監獄から出たらわたしも出られるようにファラオに取り次いでほしいと頼みました。給仕長は約束しましたが、無事に監獄から出されると、ヨセフの頼みを忘れてしまいました。
それから2年。監獄での2年は、長い2年です。事態は思わぬ方へ展開していきます。ファラオが夢を見たのでした。それはファラオにとって胸騒ぎのする夢で、その夢をエジプトの賢者たちに解きあかしを求めましたが、誰も解き明かすことができません。
それであの給仕長がヨセフのことを思い出し、囚人であるヨセフというヘブライ人の奴隷が夢を解き明かすことができますと進言する。それでついにヨセフが、ファラオの前に召し出されます。そして夢を解き明かす。その夢の意味は、これから7年間の大豊作が続き、そのあと今度は7年間の大飢饉が続くというものでした。だから陛下よ、その7年の大豊作のうちに、穀物をたくわえなさいと。それを聞いたファラオは感心し、ヨセフは一気にエジプトのナンバー2、宰相へと大抜擢され、エジプトの全権を任せられたのです。監獄の囚人である奴隷から、内閣総理大臣へ。これは神の業です。
【プロジェクター⑥】
そしてヨセフは、神の予言に備えて、7年間の大豊作のうちにできるだけの穀物を買い集めて蓄える。そしてその7年の後、大干ばつ、大飢饉が始まったのです。その大干ばつは、その前の7年間もの記録的な大豊作を忘れさせてしまうほどのものでした。中近東一帯を襲ったのです。
遠くカナンの地にいるヤコブとその息子たちも食料がなくて困り果てる。それで、エジプトの王のところには食料があると聞いて、ヤコブの息子たちが食料を買い求めてエジプトにやってくる。食料売買の責任者であるヨセフ首相は、兄たちがやってきたことが分かりますが、もちろん兄たちはヨセフのことは分からない。それでヨセフは兄たちが今どういう人間になっているかを試みるのです。そうして兄弟の一人のシメオンを人質にとって返す。
しかしまだ干ばつは終わらない。それで再びヨセフの兄たちは食料を買いにエジプトに来る。ヨセフは、また兄たちを試みようとするのですが、兄たちが心から一つになっているのを見て胸を打たれ、実は自分がヨセフであることを明らかにしたのでした。大国エジプトの、目の前にいる総理大臣が、ヨセフであったと知って、兄たちは驚きのあまり声も出ませんでした。
そうして、ヨセフは兄弟と父ヤコブをエジプトに呼び寄せます。やがてヤコブが死んだ後、ヨセフは先ほど申し上げた言葉を兄弟たちに向かって言ったのです。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
【プロジェクター⑦】
ヨセフが悪をもって悪に報いなかったのは、神の助けがあったからです。振り返ってみて、ポティファルの家に奴隷として売られた時にはこう書かれています。「主がヨセフと共におられたので‥‥」(創世記39:2)
また、ヨセフが無実の罪を着せられて投獄された時には、「しかし、主がヨセフと共におられ‥‥」(創世記39:21)
そして、夢を解くために王の前に立った時には、「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。」(創世記41:25)
ヨセフは、いつどんなときも、主が自分を守り、助けてくださっていることを知りました。そして、神のご計画があることを悟りました。その結果、むかし兄たちが自分を迫害したことも、多くの人々の命を救うために、神が善へと変えてくださったのだと言ったのです。そのように、神の働きを見た時に、悪をもって悪に報いなくて本当に良かったと思ったことでしょう。
主イエスの赦し
テサロニケの手紙を書いた使徒パウロ自身が、イエスさまによってそのように扱われたことを思い起こします。ご存じの通り、パウロはかつてはキリスト教会を憎み、迫害していた人物でした。主からご覧になれば、まさに悪そのものでした。しかしそのようなパウロに対して、主はどのようになさったか? 主は、そういうパウロを滅ぼすのではなく、逆に赦し、使徒となるように招いてくださったのでした。まさに主は、パウロの悪に対して、善をもって報いられたのです。
他の使徒たちに対してもそうです。イエスさまのためなら命も惜しくないといって従っていた弟子たちが、イエスさまが逮捕された瞬間、蜘蛛の子を散らすようにイエスさまを見捨てて逃げていった。ペトロも、イエスさまの仲間だろうと言われて、「そんな人は知らない」と言ってウソをついてイエスさまを裏切りました。まさに、自分かわいさに主を見捨てるという悪をおこなったわけです。しかし、そのような悪に対して、主はどのようになさったか?
復活のイエスさまは、そういう弟子たちのところに来られました。そしてひとことも弟子たちの裏切りを責められませんでした。そればかりか、「聖霊を受けなさい」とおっしゃり、教会を託してくださったのでした。
私たちはみな、主によって赦された罪人です。神の敵であった私たちを、主は悪によって報われず、かえって善をもって受け入れてくださったのです。まずそのことがある。その十字架の愛と恵みを思い起こしつつ、私たちは今一度このみことばを心にとめたいと思います。
「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善をおこなうよう努めなさい。」(1テサロニケ5:16)
そこに神の働きが現れることを信じます。
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