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執筆者の写真小宮山剛

テサロニケの信徒への手紙一 2章17~3章5

「想定内の苦難」

誇るべき冠

 2章19~20節を読むと、この手紙の受取人であるテサロニケの教会の人たちが、パウロたちにとってどれほどの喜びである存在か、ということが分かります。

 そこに「わたしたちの主イエスが来られるとき」と記されていますが、これはキリストの再臨のことを言っています。再びイエスさまが来られる時です。そのとき、このテサロニケの教会の人々は「希望、喜び、そして誇るべき冠」であると言っています。希望と喜びはよく分かります。次の「誇るべき冠」というのは何のことを言っているのでしょうか?

 「冠」というと、どういう冠を想像されるでしょうか。王様の頭にかぶせる、黄金に宝石がちりばめられたような王冠をイメージされる方は多いのではないでしょうか。しかしこの冠は、そういうものではありません。ここの「冠」と日本語に訳されているギリシャ語は、「ステファノス」という言葉です。キリスト教会最初の殉教者であるステファノの名前の由来ですね。このステファノスという冠は、金銀宝石を用いたものではなくて、オリーブや松や月桂樹といった、ありふれた木の枝を曲げて環にしたものなのです。競技場のレースに勝った勝者や、結婚式を挙げるカップルにかぶせるのだそうです。それは、喜びや楽しさを表すのだそうです。

 そうすると、ここでは、イエス・キリストの再臨の時に、イエスさまの前に立つ新郎新婦のように、木の枝の冠をかぶって喜びに満たされるという光景を思い浮かべれば良いと思います。テサロニケの教会の人たちに対して、「あなたと共に主をお迎えできる」という喜びです。それぐらいに、テサロニケの教会の人々のことを喜んでいます。

 次に「誇る」とはどういうことでしょうか? 何を誇るというのでしょうか? テサロニケの教会が成長したのは、自分たちの手柄であるということを自慢して誇っているのでしょうか?‥‥だとするとおかしなことになります。と申しますのも、キリスト信仰では自分が「誇る」ということは良くないことだからです。逆に、新約聖書では「誇ってはならない」と教えています。それはパウロ自身が述べていることです。

 例えば、1コリント1:31、および2コリント10:17では、「誇る者は主を誇れ」と教えています。そして極めつけは、ガラテヤ6:14です。「しかし、このわたしたちには、わたしたちの主イエスキリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」

 このように、聖書では誇ってはならないと教えています。ではきょうの個所でパウロは何を誇っているのでしょうか?

 自分たちの成果を誇っているのではありません。主を誇っているのです。これはとても重要なポイントです。まさに「誇る者は主を誇れ」なのです。テサロニケでのパウロたちの働きを用い、実を結ばせてくださった主を誇っているのです!

迫害やサタンの妨害を乗りこえて

 実際、それは主の働きであり、主の奇跡でした。17節に、「あなたがたからしばらく引き離されていた」と書いています。パウロとシラスは、テサロニケの町に数週間から数ヶ月しか滞在していません。その間に、テサロニケの町でイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。テサロニケの人々は、初めてイエスさまのことを聞いたのです。そして多くの人々がイエスさまを信じ、教会ができました。わずかの間にです。しかし、それが結局迫害を引き起こすこととなり、テサロニケの町を去らなければなりませんでした。

 そうすると、パウロたちは、あたらしくできたテサロニケの教会はどうなっただろう?彼らはイエス・キリストへの信仰を保ち続けているだろうか?教会は無事だろうか?‥‥そういう心配があっただろうと思います。

 それで、パウロは「一度ならず」(18節)テサロニケに行こうとしたのですが、そこに書かれているように行くことができませんでした。そこには「サタンによって妨げられました」と書かれています。サタンがパウロがテサロニケに行くのを妨害したというのです。

 サタンは、いるのです。サタンは目に見えません。しかしサタンは、神を信じないように、信仰を奪おうと妨害してきます。例えば、私自身、いつの間にかあまり祈りに熱心ではなくなってしまったということが起きたりします。あるいは、祈りが形式的になってしまうということがあります。気がつかないうちにです。そうすると、神さまの働きが見えなくなってきます。文句や不平不満ばかりが多くなります。心配事が増えてきます。いつの間にかにです。そのように、サタンは巧妙に、人の信仰を萎えさせようとします。

 パウロは、サタンの妨害によってテサロニケに行けなかったという。これも、実際にサタンが姿をとって現れて手を広げて邪魔したというのではありません。ではどういう風にサタンが妨害したかといえば、例えば迫害が起こったり、あるいは事件が起きて行けなくなったとか、そういうことであると思われます。だからできたばかりのテサロニケの教会がどうなってしまったか、分からない。

 それでパウロとシルワノは、同労者であるテモテをテサロニケに派遣した。そして、テサロニケの教会の信徒たちを励まし、信仰を強め、苦難に遭っても動揺しないようにしようとした。ところが、これは次回の6節からの個所になるのですが、テモテがテサロニケから戻ってきて報告したのは、たいへんすばらしいことでありました。信仰が保たれ、教会が保たれ、成長しているという報告でした。

 伝道者の喜びとは何であると思いますか? それは人々が主イエス・キリストを信じるようになることであり、信じた人たちが信仰の喜びに生きていることです。そしてそれらの人々がさらに聖霊によって成長しているのを見ることです。つまり、そこに生きておられる主が働いておられるのを見ることです。

 反対に、どんな大きな教会であったとしても、そういうものが見られないとがっかりいたします。ある時、ある都会の大教会の特別伝道礼拝の説教者として招かれたことがありました。そこの教会の副牧師が私を招いたのです。私は伝道礼拝に招かれた場合、必ず、主が生きておられることを証しします。その教会でもそういうお話しをいたしました。ところが、何か反応が全然感じられなかったのです。何か調子が狂うような想いでした。あとからそこの副牧師から聞いたところでは、何か批判も出たということでした。どんな批判かというと、神さまが生きておられるとか、そういうことが語られたことについてだというのです。

 私はそれを聞いて、本当に驚きました。主が生きておられないなら、私は直ちに信仰をやめます。それぐらいのものです。ところがそういう反応があったという。その教会は都会にあるので、主が生きて働いておられなくても、洗礼者がいなくても、地方の教会からの転入者がいるからやっていけるからでしょうか。だとしたらそれは、自分の教会がやっていけたらよいという間違った考え方です。主がお命じになったのは、教会がやっていけるかどうかということではなく、キリストの福音を宣べ伝えることです。主イエスが復活して生きておられることを宣べ伝えることです。そしてすべての人がキリストのもとへ来るように導くことです。

主の働き

 さて、テサロニケの教会は、できたばかりのよちよち歩きの教会なのに、牧師も伝道者も不在だったのに、しかも迫害の中に置かれたのにもかかわらず、そのように信仰が守られ、信仰の喜びに満ち、周りの地域にキリストを伝道するまでになっていた。これは驚き以外の何ものでもありません。言葉を言い換えれば、生ける主の働き以外の何ものでもありません。

 だからパウロたちは、主を誇っているのです。喜んでいるのです。生ける主の働きをそこに見たからです。19節の「誇るべき冠」とはそういうことです。

 主は生きておられます。

 「クリスチャン新聞・福音版」の12月号を見ておりましたら、アントニオ古賀さんの証しが掲載されていました。アントニオ古賀さんについては、若い人はご存じないかもしれませんが、私以上の年齢の方ならご存知であると思います。ギタリストです。76歳になられたそうです。

 アントニオ古賀さんは、歌手であると同時にギタリストであり、来年には芸能界デビュー60年を迎えるそうです。その古賀さんは、昨年の12月に、音楽プロデューサーの輪嶋東太郎さんから「25日は何してる?教会に行ってみない?」と、教会のクリスマス礼拝に誘われたそうです。ふだんはクリスマスのディナーショーなどで忙しい時期だったのが、昨年は珍しく何もなかったそうです。それで、「クリスマスにクリスチャンはどういうことをするんだろう?」という興味もあり、奥さんと息子さんと家族3人で行ってみたそうです。

 するとそこは牧師が韓国人で、韓国人と日本人が一緒に礼拝をする賛美のさかんな教会だったそうです。初めて礼拝に出た時の印象をこのように語っておられます。「びっくりした。入った時の気がすばらしかった。礼拝は歌で始まり、歌で終わるのですが、歌っている最中は、なぜか涙がどっと流れ出てきた。喜びがこみ上げ、誰かと出会えたような気がしました。」帰り道では、「パパ、ずっと泣いていたじゃない」「お前だって泣いていたじゃないか」と、奥さんと息子さんと話しながら帰ったそうです。

 その一週間後の今年の元旦礼拝にもわじまさんに誘われて出席し、また同じような体験をしたそうです。それから足繁く教会に通うようになったそうです。そして今年の4月のイースターに奥さんと一緒に洗礼を受けたそうです。「私に、父なる神という、新しいお父さんができたのです」と言っています。「本当にクリスチャンになるべくしてなったみたいな感じですよ。神さまを信じていなかった時も、いつもまもられていたからね」と語られたそうです。

 主は生きておられます。これは生きておられる主の働きですね。

 もうすぐクリスマスです。クリスマスは、主がたしかにこの地上に来られたことを証ししています。どうか、主が生きて働いていることを、また知ることができますように!

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