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執筆者の写真小宮山剛

テサロニケの信徒への手紙一 2章1~4

「喜んでくれる」

横田めぐみさん

 先週の11月15日は、横田めぐみさんが北朝鮮の工作員に拉致されて40年目の日でした。

 1977年11月15日、横田さん一家は新潟市の海岸近くの家に住んでおられました。当時中学生だっためぐみさん。母の早紀江さんは、学校へ登校しようとするめぐみさんを玄関まで追いかけ、白いコートを手渡そうとして「持って行かないの?」と聞いたそうです。めぐみさん「今日はいいわ。置いていく」、そういって学校へ向かっていった。これが最後の会話になったのでした。それはごく普通の朝だったのです。

 ところが、めぐみさんは夜になっても帰ってこない。中学校まで様子を見に行くがいない。お母さんの早紀江さんはたいへん不安になりました。両親は学校の先生と一緒に周辺を探すがいない。警察に通報しました。誘拐かも知れないということで、捜査員が家に詰めた。‥‥しかし何の手がかりもない。家出をしたのかも知れないと思い、早紀江さんは自分を責めたそうです。畳をかきむしって泣き「何度も死にたいと思った」そうです。「どうか、どこかで生きていて!」と絶叫したくなるような気持ちで、めぐみさんを捜し続けていました。「どうしちゃったの?どこに行ってしまったの?」と、ひとりで毎日毎日泣いていた。

 そういうときに、「因果応報だ」とか「先祖のおまつりの仕方が悪い」と心ないことを行ってくる宗教の人たちがいました。そんなときに、めぐみさんの親友のお母さんが、聖書の言葉を語ってくれたのです。(ヨハネ福音書9:1-3)“さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。”

 横田早紀江さんは、「はじめて聞く不思議な言葉でした」と本に書いておられます。この言葉によって、めぐみさんがいなくなったのは、めぐみさんの罪のためでもなく、両親の罪のためでもないということで、大きな平安と慰めを与えられたそうです。その後しばらくして、ふと聖書を手に取ったのです。それはまた別の人が置いて行ったものでした。そして置いて行かれたときに、「ヨブ記」を読んでね、と言われたことを思いだしたそうです。そして、一気にヨブ記を読んだそうです。

 ヨブ記は、いま当教会の聖書を学び祈る会でも読み始めています。ヨブという裕福な人が、ある日すべての財産を失い、子供もすべて死んでしまい、自分自身もひどい皮膚病にかかって苦しむ。そして奥さんに「神を呪って死になさい」と言われるほどたいへんな目に遭う。しかしそのヨブが、どこまでも神から目を離さずに信じ切っている姿に、言いようもない感動を早紀江さんは覚えたそうです。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)‥‥このヨブの言葉に非常に引きつけられたそうです。

 それまで早紀江さんは、いっしょうけんめい生きてきたつもりだった。悪いこともしないで正しく生きていると思ってきた。自分の努力で何でもできると思っていた。しかしこの時、早紀江さんは、「それなりに正しい行動をすれば達成感があると思っていたわたしの小さな考えとは全く違う、神さまの視点というものがあると教えられたのです」と本に書いておられます。

 さらに読み進むと、ヨブ記11:7-8のこういう言葉に出会った。「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。」この言葉に早紀江さんは、全能の神の人間の力では及ばない、深くて大いなるものを感じたのだそうです。そうして涙ながらにヨブ記を読み通した。すべて自分に当てはまるようで、良い意味でのショックを受けたのだそうです。そうしてやがて、宣教師の主催していた聖書を読む会に出席するようになり、洗礼へと導かれたのです。

 その洗礼の時のことをこのように書いておられます。「……待つこと以外、何もできない私の一つの選択であり、またそれは一方的な神の恵みによるものであったのでした。私も主人も、この間、何度となく、めぐみはもう戻って来ないかもしれないと思いました。けれども、何の手がかりも得られない代わりに、戻って来ないという証拠もない以上、めぐみは生きていると信じるしかないのです。そして、一瞬一瞬、信じて待つことがどれほど大変なことか、その精神的な苦痛はことばではとうてい言い表すことはできません。私は、洗礼を受け、すべてを神に委ねることになりました。」

 さて、夫の滋さんは、早紀江さんが教会に通うようになっても、「本当の宗教なんていうものはない。自分が強くならなければダメなんだ」という人だったそうですが、その滋さんが、この11月4日に洗礼を受けたのだそうです。

 40年。たまらなく長い。海を隔てて隣の国にいるのに、どうすることもできない。横田夫妻にとって、また他の拉致被害者の家族にとって、どんなに厳しく苦しい日々だったことでしょう。しかし横田夫妻のことを見る時、苦しみの中でたしかに働かれる神さまを見ることができると思います。

ムダではない

 本日の聖書個所の2章1節に、「わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」と書かれています。パウロとシルワノ(シラス)とテモテが苦労してテサロニケの町へ行って、キリストの福音を語り伝えたことは無駄ではなかったと。なぜ無駄ではなかったのか? 多くのギリシア人がイエスさまを信じるようになったからでしょうか? あるいは、テサロニケの、この新しいキリスト信徒たちが霊的に成長しているからでしょうか?

 もちろん、それもあるでしょう。しかし2節を読むと、「無駄ではなかったどころか」と言って、「激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」と述べています。つまり、福音を語ることができたから、無駄ではなかったと言っているのです。迫害などの苦難に遭遇したが、イエス・キリストのことを語り伝えることができた。それゆえに無駄ではなかったのだと述べているのです!

 すなわち、多くの人々がイエス・キリストを信じるようになったとか、そういう結果よりも、キリストのことを語り伝えることができたということそのものが大切であるということです。

 これはたいへん意外な言い方です。なぜなら、この世は結果を求める社会だからです。例えば、プロ・サッカーの監督はたいへんだと思います。勝っている時は称賛を受けますが、負けが続くとファンから罵声を浴び、簡単にクビになってしまいます。会社でもそうです。サラリーマンは、結果によって昇級し、給料も上がり、ボーナスもはずむ。しかし結果を出せなければ厳しい道が待っています。そのように、結果がすべてだというのがこの世の中です。

 それに対してパウロたちがここで述べていることは、副因を語り伝えた結果、どれだけ多くの人々がキリストを信じるようになったかと言うことを問題にしているのではなく、厳しい環境の中でもキリストの福音を語り伝えることができたということを感謝し、無駄ではなかったと言っているのです。

 すぐに結果が出ない世界があるのです。わたしが今まで牧会してきた中で洗礼を受けた人たちを思い出しでも分かります。ある中年男性は、初めて教会へ通うようになったと思っていました。ところが、実はむかし高校生の時に友だちに誘われて一度教会へ行ったことがあるということを思い出しました。そのときに種が蒔かれていたのです。

 あるいは、ある女性は、小学生の時に友だちが教会へ通っていて、それをたいへんうらやましく思っていたそうです。そして時を経て、教会に来てみたのです。このケースも、小学生の時の友だちが種を蒔いていたと言えます。すぐに芽が出て成長するのではありません。すぐに結果が現れるとは限らないのです。みことばの種を蒔く人がおり、水を注ぐ人がおり、刈り入れる人がいる‥‥。

 パウロたちにしてみれば、結果そのものよりも、困難な中でもイエスさまのことを人々に語ることができた。そのことが無駄ではないことであると言っているのです。後は神さまにゆだねているのです。そのように、神を信じた時に、すべてのことは無駄ではなくなります。

宣べ伝えるには

 さて、パウロたちはキリストの福音を宣べ伝えました。3節を見ると、それは「迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と述べています。迷いがないとは、自分たちの語るイエス・キリストのことに疑いがないということでしょう。また、不純な動機ではないというのは、例えばお金儲けが目的でキリストの福音を宣べ伝えたのでもなく、名誉心でも邪心でもないということです。さらに、ごまかしによるものでもないというのは、相手をだまそうとしたり、はったりをかまそうとしたりしてイエスさまのことを語ったのでもないということでしょう。

 すなわち、自分たちの信じるイエス・キリストの救いを、正々堂々と、偽りなく誠実に語ったということです。それは4節に書かれているように、人に喜んでもらおうとしてではなく神に喜んでもらおうとしてそのように誠実に、愛を持って伝えたのだと言っています。

 何かパウロたちは自分たちの自慢話をしているように聞こえるでしょうか。そうではありません。パウロたちがわざわざこのようなことを述べているのは、テサロニケの信徒たちにも同じようにしてほしいと、教えているのです。今やテサロニケのこの若い教会は、周りの町や村の人々に、イエスさまのことを宣べ伝えるほどになっている。だからこそ、迷いや不純な動機やごまかしによるのではないということを教えているのです。イエスさまについて信じるところをうそ偽りなく、誠実に愛をもって語る。後は神にゆだねる。

 最初に横田早紀江さんの証しを紹介させていただきましたが、最初に横田早紀江さんに聖書の言葉を伝えた父兄は、まさにそのような思いで語ったことでしょう。絶望のどん底にある人につけ込むというのではなく、自分が信じている聖書の言葉を、愛をもって語ったことでしょう。それが用いられたのだと思います。

 結果ではない。私たちにも主の福音を話す機会が与えられるようにと、主に祈りたいと思います。

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