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執筆者の写真小宮山剛

テサロニケの信徒への手紙一 1章5~7

「苦しみの中の奇跡」

人はなぜ神を信じるか

 私たちはなぜ神を信じるのでしょうか。わたしたちは神を信じ、そして教会の礼拝に集っている。それは一体なぜなのか?

 何か御利益を求めてのことでしょうか? もちろん、神を信じることによって御利益があるに違いありません。しかし、それだけではないはずです。

 例えば、問題の解決を求めて教会に来るようになったのだが、その問題が解決すると来なくなるという人もいます。私の前任地の教会でも、そういうことはありました。それまで教会に来たことがなかった方でしたが、大きな問題にぶつかってしまって、どうにもならなくなり、私のところに相談に来られました。私は一緒にその問題を考えると共に、神さまに祈りました。そしてその方にも、日曜日の教会の礼拝に出席して自分も祈るように勧めました。するとその人は礼拝に出席するようになりました。そして、その問題が解決されました。神さまの助けでした。そうするとその方は、とても感謝をしました。しかしそれから教会には来なくなりました。もちろん、その人に何か悪気があったわけではありません。たとえば、神社にお百度を踏んだ人が、願いが叶えられるとお礼参りをして終わるのと同じ感覚だったのだと思います。教会の神さまにお願いし、問題が解決された。それで感謝をして、お礼参りをして終わり。それが普通の考え方かも知れません。ですから、御利益を求めるだけで教会の礼拝に来続けるということは考えにくいと思います。

 あるいはまた、単に話しが面白く興味深いから礼拝に通うのでしょうか? しかしそういうことで言うならば、世の中にはもっと面白くてためになる話しはあるでしょう。面白いと言えば、落語も面白いわけですが、落語に毎週通うというのは、よほど落語好きでお暇な方ということになるでしょう。ところが私たちは、決して暇でもないのに、忙しい時間をさいて、午前中いっぱい寝ていたいところも起きて、礼拝に通うわけです。しかも何かに脅されて来ているわけでもありません。

 そうすると、神を信じ、礼拝に通うということはまことに不思議な事であると言わなければなりません。

 実は、私たちが神を信じ、礼拝に通うというのは、何か人間の側に理由があるからということではないのです。もしわたしたち人間の側の理由であったとしたら、御利益がなくなったら神を信じなくなるということになるでしょう。

 私たちが神を信じるのは、つまるところ、私たちの側に理由があるのではなくて、神さまの側に理由があると言えるのです。すなわち、神が私たちに対して神を信じることを求めておられ、私たちを神のもとに招き、導いておられるということです。

 そしてそのことが、4節の「あなたがたが神から選ばれた」という言葉に表されているのです。この神の選びというのは、何か私たちが立派だから、善行をたくさん積んだから選ばれたということではありません。そのことは、私たちが自分を省みれば分かることです。むしろ神に選ばれるに値しない自分であることは、私たち自身がよく知っていることです。ですから、神がなぜこのテサロニケの教会の信徒たちを、そして私たちをお選びになったのかということは、神さまにしか分かりません。それは神の主権に属することです。

 ただ、お選びになった者たちを、キリストに似た者とするためにお選びになったという目的は分かります。神の国の住人らしくしていくためにという目的です。

5節の神秘

 さて、きょうの聖書個所の5節の前半部分ですが、まず私が自分でギリシャ語から訳したものをご紹介いたします。

 「なぜなら、私たちの福音は、言葉の中でだけではなく、力の中で、そして聖霊の中で、また大きな確信の中で、あなたがたの中に存在するに至ったからである。」

 われながらまことに不自由な日本語ですね。直訳的に訳すと、そのように不自由な日本語にならざるを得ないと言い訳しておきます。新共同訳聖書の「ただ言葉だけによらず」の「よる」、「力と、聖霊と、強い確信とによった」の「よった」ですが、これは前回の説明と同じになるのですが、ギリシャ語では「εν」(エン)という言葉になっています。この言葉は前回も申し上げたように、「の中に」というのが基本的な意味です。そのようにして日本語に訳しますと、福音が言葉と力と聖霊と大きな確信の「中で」伝えられた、ということが浮かび上がってきます。

 ここでいう「言葉」というのは、パウロとシルワノとテモテの語った言葉のことです。すなわち、イエス・キリストについての言葉です。しかし言葉だけで信じたのではないという。「力」、これは神の力です。奇跡です。「聖霊」、これはわかりますね。神の霊です。そして「強い確信」。これはちょっと余分な言い方のように聞こえます。そもそも「確信」ということ自体が、強く信じることですから、「強い確信」というとダブった言い方のように聞こえます。しかしそこにパウロたちがいいたいことがあるわけで、確信がさらに強い、大きいということは、その信じるということが神さまによって与えられた確信であることを言いたいわけです。そういう中で福音が伝えられたのだと。つまり、キリストがどんなお方でありどのようなことをなさったかという言葉が、神の力の中で、神の霊の中で、神によって与えられた確信の中で伝えられたと、それはまさに神の働きであったことを言っているのです。

 その「福音」という言葉の意味をあらためて申し上げておきますと、それは「喜ばしい知らせ」という意味です。その福音とはここでは何のことを言っているかと言えば、言葉にしてみると、イエス・キリストを主と信じて救われるということです。しかし究極的に言えば、イエス・キリスト御自身のことを指している。イエス・キリストが語った教えと言うよりも、そのイエスさま御自身が福音です。イエス・キリストを信じることによって聖霊が与えられ、その聖霊を通して、イエス・キリストが私のところに来られる。そのキリストによって生きる。それが福音です。

 先ほど、私の不自由な直訳で、「なぜなら、私たちの福音は、言葉の中でだけではなく、力の中で、そして聖霊の中で、また大きな確信の中で、あなたがたの中に存在するに至ったからである」と訳しましたが、「福音が‥‥あなたがたの中に存在するに至った」という訳になるのは、そういうことです。イエスさま御自身が、聖霊によって私たちの中に存在するに至ったということです。そういう出来事のことを言っています。

 先週の当教会の神学校日礼拝では、東京神学大学の神学生に説教をしていただきました。礼拝後のサンデー食堂のときにS神学生を囲んで過ごしました。そこでS神学生は、自分がキリストを信じたときの証しをしてくれました。

 Sさんは、家はキリスト教でもなんでもなかったそうですが、入った幼稚園がキリスト教幼稚園であったのが始まりだったそうです。そして学校もキリスト教主義学校だった。それで教会学校にも通うようになったそうです。そうして育っていきました。しかし中学3年生の時に反抗期を迎えたそうです。それはキリスト教に対しても向けられた。そして、「聖書を否定してみよう」と思ったそうです。すなおに聖書を信じるのをやめて、批判的になったということでしょう。たまには教会へ行ったが、毎週のように行くことはなくなったそうです。そうして高校2年生の受難節の時、久しぶりに教会に行ってみたそうです。するとそのときの礼拝で、聖書個所がヨハネによる福音書のイエスさまの十字架の場面だったそうです。すると、「これはホントだ」と思って感動し、涙が出たそうです。そうしてイエスさまを信じた。

 この話を伺っていて、ああ、聖霊の働きだなと思いました。これは理屈ではないんですね。主の働きです。その主の働きの中で信じた。そうやって私たちも導かれたはずです。

苦難の中の喜び

 6節に行きます。そこで「ひどい苦しみ」と言われています。これはテサロニケの信徒たちの受けた迫害のことを行っています。ギリシャの町テサロニケで、パウロたちは短期間しか滞在することができませんでした。しかしその短期間の間に、多くの現地の人々がキリストを信じるようになりました。そのことに対して、現地に住んでいるユダヤ教徒たちがねたんで、町のならず者を抱き込んで暴動を起こして迫害したということが、使徒言行録17章に記録されています。「皇帝に背いて『イエスという別の王がいる』と教えている」というようなことを言って、群衆を扇動したのです。キリスト教徒は反政府運動をしているというぬれ衣を着せたわけです。そうして、おそらく教会の場所を提供していたヤソンという人の家を襲い、信徒たち数人を捕らえて訴えた。そういう迫害にさらされたのです。

 しかし6節には、「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」と書かれています。苦しみの中の喜びです!その喜びとは何か?‥‥それはもう人間の与える喜びではありません。聖霊の与える喜び、神さまが与えてくださる喜びです。そのかけがえのない喜びを経験してしまった。そのとき、人間の苦しみとかそういうものは、埋め合わせて余りあるものとなったと言えます。

模範

 「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」と書かれています。「私たちに倣う」というのは、何かパウロたちのような立派な人に倣う、という意味ではありません。主イエスを求めることにおいて、神を求めるということにおいて、さらに主に依り頼むということにおいて、わたしたちに倣う者となったということです。パウロとシルワノとテモテが、主にすがり、主に祈り、主を求めて歩んでいるように。

 「主に倣う者」とは、イエスさまのような人格を持った人となるように求めるようになったということです。それら、神を求め、主を求めることにおいて、その姿勢において、マケドニア州とアカイア州の信者の模範となったと言っているのです。

 主の働きの中で、イエス・キリストという福音、喜ばしい知らせがわたしたちの中に存在するに至る。感謝です。

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