「愛されて、選ばれて」
テサロニケの信徒への手紙
本日から、テサロニケの信徒への手紙一の講解説教に入ります。なぜこの手紙を選んだか。じつは、この前までの使徒言行録の講解説教がそろそろ終わりに近づいてきたころ、次はどこを取り上げようかと考えました。そして神さまに祈って導きを求めました。「次はどこを取り上げたらよいでしょうか?」と。そこで神さまが「次はこの書物を取り上げなさい」とおっしゃって下されば話しは早いのですが、神さまは何もおっしゃいませんでした。しかし、どうしてもこのテサロニケの信徒への手紙一を読みたいという思いに至りました。これも主が導かれたことと信じて、この礼拝で読んでいきたいと思います。
さて、「手紙」を読むというと、「何か他人の手紙を読んでもつまらない」と思う方もおられるかも知れません。しかしこれらの聖書に載っている手紙は、そういうものではありません。福音書はイエスさまのなさったこと語られたことが記録として綴られています。使徒言行録は、パウロを中心とした使徒たちの足取りを記録として追っています。そのように、ドキュメンタリー映画を見ているような形になっています。
それに対して、新約聖書に収められている手紙の多くは、キリスト教の教えがまとめられているものです。すなわち、手紙を読むとキリスト教がなんなのかがよく分かるということです。そしてまた、例えばパウロの書いた手紙を読むと、使徒パウロがどのようなことに心を砕いていたかを知ることができます。それぞれの教会に対して、どのようなことにパウロは心を砕き、導こうとしていたかということについて知ることができます。それはまた、私たちの教会に直結することでもあります。
そういうことで、短い手紙ではありますが、しばらくこのテサロニケの信徒への手紙一をご一緒に読み進めながら、主から恵みをいただきながら、歩んでいきたいと思います。
このテサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中には27文書が収められていますが、その中で最も早く書かれた文書と言われています。4つの福音書よりも先に書かれたようです。だいたい紀元51年、すなわちイエスさまの十字架・復活・昇天から約20年しか経っていない時です。
パウロは第2回の世界伝道旅行で、始めてこのテサロニケの町を訪れました。そしてそこでイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そしてかなりの人がキリストを信じるようになりました。ところがそこでも、ユダヤ教徒が現地の人を扇動してパウロたちを迫害したので、パウロらは短期間でテサロニケを出ていかなくてはなりませんでした。そのように短期間で去ったので、パウロはテサロニケにできたばかりの教会のことを心配して、テモテを派遣しました。そしてテモテが戻ってきて報告するには、テサロニケのキリスト信徒たちはちゃんと信仰を保っているということでした。それでパウロはこの手紙を書いたのです。書いた場所は、コリントの町であると思われます。
神とキリストの中に
まず最初の書き出しは、手紙の差出人と受取人が書かれています。「パウロ、シルワノ、テモテから」とあります。このうち「シルワノ」は、使徒言行録ではシラスのことです。すなわちこの手紙は、テサロニケに福音を宣べ伝えた3人の名前で書かれています。
次に、「父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ」と書いています。「結ばれている」となっている。このまま読むと、「父である神と主イエス・キリストにつながっているテサロニケの教会へ」と読めます。
ここは他の日本語訳聖書ではどうなっているかと申しますと、
口語訳「父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ」
新改訳「父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」
となっています。新共同訳で「結ばれている」となっているものが、「にある」となっている。「神とキリストにある教会」。分かったような分からないような感じです。それで新共同訳聖書は、「結ばれて」と訳しているのでしょう。ただ、「結ばれて」と訳すと、例えば「わたしとあなたが結ばれて」というように、「あなた」は「わたし」の外にあることになります。
ではここで、新共同訳聖書が「結ばれている」と日本語に訳し、口語訳聖書と新改訳聖書が「にある」と訳している言葉は原文ではどういう言葉なのか。原文のギリシャ語では「εν」エンという言葉です。この「エン」という言葉は何かというと、英語の「in」とほぼ同じ意味であると言えます。前置詞の in ですね。
英語の「in」は、非常にいろいろな意味で使われる単語です。英和辞典を開きますと、in の意味として、「‥‥の中に」、「‥‥において」、「‥‥に乗って」、「‥‥で」、「‥‥のために」‥‥とさまざまな意味が書かれています。しかし、様々な意味がある単語ですが、その中心は「‥‥の中に」という意味にあると思います。
例えば、in the morning という英語は「午前中に」という意味ですが、もう少し細かく言うと、「午前という時間の中に」と言っているのだと考えることができます。あるいはまた、please speak in Japanese は、「日本語で話して下さい」という意味ですが、これも細かく言うと「日本語の中の言葉で話して下さい」ということになるのでしょう。
こんなことを申し上げて、何か語学の勉強を始めようというのではありません。ここに大きな恵みが隠されているということを申し上げたいのです。
すなわち、口語訳と新改訳聖書が「にある」と訳し、新共同訳聖書が「結ばれている」と訳している言葉は、「の中に」と本来の意味に訳すべきであると思うのです。そうすると、教会とは何か、が見えてくるのです。「の中に」と日本語に訳すと、このテサロニケの信徒への手紙一の1章1節の言葉は、「父である神と主イエス・キリストの中にあるテサロニケの教会」という日本語になります。すなわち、教会というものが、神とキリストの中にあるということを言っているのです!
テサロニケの教会だけではありません。この私たちの逗子教会も、神と主イエス・キリストの中にあるということです! 神さまの中に、そしてキリストの中にあるのです!
これを驚かずにいれるでしょうか。「結ばれている」と訳すと、何か私とあなたが結ばれているという感じで、何気なく読み過ごしてしまいそうですが、そうではない。「私はあなたの中にある」、教会は父なる神と御子イエスさまの中にあると言っているのです。
確かに人間の目で見ると、教会もこの世の中にあります。逗子教会は、神奈川県逗子市逗子5-12-15という場所に建っている。また、教会の中にはいろいろな人がいます。私自身も、欠点があり、足らないところがたくさんある、欠けのある人間です。わたしたちはお互いにそうです。そういう教会が、神さまの中にあるという。キリストの中にあるという。私たちは神の中にあるという。
もちろん、聖書では教会とは建物のことではありません。教会とは、キリストを信じて神を礼拝する群れのことを指す言葉です。そうすると、今まさに集まって主を礼拝しているこの礼拝こそが教会であると言えます。そしてこの礼拝は、父なる神さまの中、イエス・キリストの中にあるということです。この世の中にありながら、この世とは区別されている。そういうところに今、わたしたちはいるということです。連なっているということです。
愛されて、選ばれて
4節を見てみましょう。「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」
「神に愛されている兄弟たち」と呼んでいます。これもテサロニケの教会の信徒たちだけのことをいっているのではない。およそキリスト者というものについて、「神に愛されている兄弟たち」と言っているのです。すなわち、わたしたちは神によって愛されているということです。この私が愛されている?‥‥つらいことばかり多い、苦しい目にも遭ってきた、ひどい目に遭ってきた‥‥とても神さまから愛されているように見えない。その私が愛されているとはどういうことでしょう?
いや、そうではない。今ここにいる。この教会、教会は神の中にある、キリストの中にあるからです。あなたも神の中、キリストの中にいる。
「神から選ればれた」とは、どういうことでしょう?‥‥それは、選ばれた人がいて、選ばれない人もいるということを言いたいのではありません。わたしたちが信仰を持つようになった、教会に連なるようになったのが、神の導き、神の主権にあることを言っている言葉です。私たちは自分で教会の門を叩いたように思っているかも知れない。しかしそうではない。実は、神が導かれたということです。私ではなく、神さまであるということです。
ではなぜ神はわたしたちをまず選ばれたのか? それは、よく分からないというのが本音です。神の選びは分かりません。しかし、その理由の一端が記されているのが、今日読んだ旧約聖書のみことばに書かれています。
イザヤ書43:10「わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。」
わたしたちは神さまの証人である、イエスさまの証人として選ばれたという。全く役に立ちそうもない自分でありますが。とにかくわたしたちにはそれ以上分からないのですが、主はわたしたちを選ばれ、愛しておられるというのです。それで、キリストの体なる教会へ導かれた。そして、ここに、神とキリストの中にいる。
信仰・希望・愛
きょうの聖書個所に、「信仰・希望・愛」のフレーズがあるのにお気づきでしょうか?
3節に、信仰、愛、希望という順番で出てきます。「信仰・希望・愛」というと、わたしたちは、コリントの信徒への手紙一の13章13節をすぐに思い出すでしょう。そこには「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と書かれています。
しかし実は、信仰・希望・愛の三つが出てくるのは、そこだけではありません。今日のところもそうですし、このテサロニケの信徒への手紙一の前のコロサイの信徒への手紙でも、1章4~5節に出てきます。もっと言えば、パウロの手紙は、信仰と希望と愛が織りなしているとも言えます。
光の三原色というものがあります。赤と緑と青です。すべての光の色は、この三つの色の強弱の組み合わせで表されるそうです。そしてこの三つの色が、ちょうど重なると何色になるかといえば、白になるそうです。純白ですね。白は、教会の典礼色では、勝利、清さ、喜び、神の栄光などを現します。
このことは、まさに信仰・希望・愛の三つの組み合わせを指し示しているかのようです。この三つが組み合わさると、罪と悪魔に対する勝利があり、聖霊によって清められ、喜びがあふれ、神の栄光が現れるということになるでしょう。
テサロニケの信徒への手紙を読みつつ、その喜びにあずかりたいと思います。
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