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執筆者の写真小宮山剛

「キリストの体なる教会」 ~日本基督教団信仰告白による説教(12)~


エフェソの信徒への手紙1章20~23

20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

“教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたるものの集ひなり。”


教会はキリストの体


 「教会は主キリストの体にして」と、日本基督教団信仰告白は述べています。また本日の新約聖書のエフェソの信徒への手紙1章23節でも「教会はキリストの体であり」と述べています。そのように、「教会はキリストの体」であるという。非常に不思議な表現です。そして実に驚くべき表現です。

 教会はキリストの体であると言いますが、イエス・キリストご自身は天に昇られ、神の右に座しておられるのであることは、きょうのエフェソ書1:20にも書かれていますし、使徒信条が告白していることでもあります。そのキリストの体が、この地上に存在する教会であるというのです。

 教会とは何であるのか。世間では、教会とは建物のことだと思っている人が多いのですが、そうではありません。「教会」はギリシャ語では「エクレシア」と言います。それは「集会」とか「共同体」という意味です。つまりそれは、建物のことを表す言葉ではなくて、人間の集まりを指す言葉です。そしてその「集会」を表す「エクレシア」という言葉に、定冠詞の「ホ」(英語で言えば The に相当する)を付けた時に「教会」という言葉に訳しているわけです。そして教会で人が集まるのは、イエスさまを信じて神さまを礼拝するために集まるわけですから、教会というのは、イエスさまを信じて神さまを礼拝する群れ、共同体のことを「教会」と呼ぶのです。

 そうすると、教会はキリストの体であると言った時、教会堂という建物がキリストの体であるというのではなく、イエスさまを信じて神さまを礼拝するために集まっているこの集まりが、キリストの体であるということになります。実に神秘的なことです。


現実とのギャップ


 さて、そのように言われても、そんなふうには思えないということになるのではないでしょうか。なぜなら、「教会はキリストの体である」と言われると、教会はイエスさまのような人の集まっている場所であるかのように思われるからです。しかし実際は、そうではない。むしろ、「教会はどんなにすばらしい場所かと思って来てみたら、そうでもないのでがっかりした」と思う人もいます。実際、私も若き日に、ある教会へ行ってつまずいてしまったのです。そうすると、そもそも教会に行かなくても神を信じる、イエスさまを信じるということはできるのではないか、と思えてきます。

 もと金沢の若草教会牧師で、現在は北陸学院の院長をしておられる楠本史郎先生の著書に、『教会に生きる』という本があります。今、当教会の役員会でも学びのために使っていますし、受洗志願者の準備会でも使います。その本の中で、最初に、ずいぶん前にその教会で洗礼を受けたのに、教会に行かない人のことが出てきます。その教会では、楠本先生の後に私が着任したので、その人が誰であるか私も知っているのですが、楠本先生がその人の家をお訪ねすると歓迎してくれる。話もはずむ。それどころか、「最近教会は伝道に熱心ではない」とお叱りまで受ける。その人は聖書も読んでいる。自分ではクリスチャンであるつもりである。しかし教会には来ない。‥‥そういう人の話が出て来ます。しかし日本のクリスチャンには、案外こんな人が多いのではないか、と先生は述べておられます。

 たしかに、そのようなことはデータにも表れているように思います。日本のキリスト者人口は、総人口の1%であるとはよく言われることですが、実際に調査をすると、自分はキリスト教だという人は6%もいるという調査もあります。その違いは何かというと、教会につながっているかどうかです。教会につながっていなくても、自分はキリスト教だ、あるいはキリストを信じているという人が多いということです。

 さらに例えば結婚式でいうと、半数以上の人がキリスト教式結婚式を挙げています。しかしだからと言って、教会に通っているわけではありません。

 そうすると、別に教会に行っても行かなくても、どうでもよいではないかとさえ思えてきます。むしろ、教会に行くと奉仕だとか献金だとか、面倒くさいことがあってかなわない。自分1人で聖書を読んで、お祈りしていたほうが楽だという考え方も出てきます。


教会なくして救いはない


 それに対して、「いやいや、やはり教会に行ったほうが良い。自分1人で聖書を読んでいても分からない。それに、みんなで讃美歌を歌うのはなかなか良い気分になれる」というような意見も出てくるかと思います。これもたしかにそうなのには違いありませんが、今述べた、教会に行くとか行かないとかの理由は、いずれも人間の側の理由です。自分にとって、教会に行った方が良いか悪いか、という話しにすぎません。しかしそういうことで教会に行くとか行かないとかいうことが決まるのでしょうか。それではまるでサークルに行くか行かないか、というようなものです。

 聖書はなんと言っているか。22節をご覧下さい。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」と書かれています。‥‥神がキリストを、教会にお与えになった、と書かれています。教会に、お与えになったのです。

 ペンテコステの出来事を思い出しても分かります。聖霊は、イエスさまを信じる者が集まっているところに降臨しました。それが教会です。聖霊が降ってきて教会ができ、教会に聖霊が与えられたのです。

 むかし、私が輪島教会の牧師をしている最初の頃、となりの教会(と言っても、80キロも離れているのですが)である羽咋教会の牧師は、加藤智先生でした。加藤先生は、もとは真言宗の僧侶であったという経歴の持ち主でした。その先生からいろいろな話を聞かされたことをなつかしく思い出しますが、先生が言うには、「キリスト教は個人主義の宗教ではない」というのです。そして「むしろ個人主義の宗教は、仏教だ」というのです。私たちは仏教は家の宗教、村の宗教で、キリスト教が個人主義だと思っているかもしれない。しかしそれは違うというのです。あくまでも仏教は、個人個人の救いが問題となる。それに対して、キリスト教は、教会という共同体として救うということで、教会は救いにとってなくてはならぬものとなっているということでした。キリスト教についてはその通りです。


エフェソ1:20~23


 20~21節を見てみましょう。ここでは、十字架にかかって死なれたイエス・キリストを、神が復活させ、天国の神の右の座に着かせたこと、そしてキリストを「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりではなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と書かれています。

 神さまは、この世のあらゆる権力を持っている人の上に、この世のもっとも大きな力を持っている人のさらに上に、この世を我が物顔に動かしているようにも見えるサタンの上に、この世の人間のどうしようもない悪の力の上に、キリストを置かれました。死という人間の最後の敵も、キリストの足の下に踏みつけられました。ものすごいキリストの地位です。この世界に、これ以上はない、キリストの権威です。力です。まさに絶大なキリストの権威です。どんな権力も、キリストの下に屈せざるを得ません。そのように、神はイエス・キリストを「すべてのものの頭」とされました。そのキリストを教会にお与えになったというのです!これはすごいことです。

 23節には、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と記されています。‥‥「すべてにおいてすべてを満たしている」とは、この宇宙のすべてです。この宇宙がちゃんと法則に従って運行されている。存在するために必要な物質で満たされている。この世の中のすべてのものを満たしている。ものすごい知恵です。絶大な力です。

 そのキリストが満ちているのが教会であるというのです。そんな気がしないと言う人もいるでしょう。しかし、そんな気がするとかしないとかいう話しではありません。神がそのようにされているというのです。そうすると、教会というのは、何か人間の都合で単に便宜的に集まっている団体だというのではありません。私たちがこのキリストの体の一部となるように、神さまが招いて集めてくださったものだということです。すなわち、神は、この世が教会になることを願っておられるということになります。

 振り返ってみると、私が経験してきた神さまの奇跡や不思議な働きというものは、すべて教会へと導かれるためのものでした。来週の特別伝道礼拝でお話ししたいと思います。

 この手紙を書いている使徒パウロ自身、どうしてキリスト者となり、さらに伝道者となったのか。もともと使徒パウロは、キリスト教会を激しく迫害していた人でした。パウロはユダヤ教の中の熱心なファリサイ派でした。死んだはずのイエスがよみがえったなどと言うキリスト教徒を憎み、教会を迫害し、荒らして回っていました。

 ところが、なおもキリスト教会を迫害するためにシリアのダマスカスに行く途中の道で、かれはまばゆいばかりの光に照らされ、パウロは地面に倒れました。そしてその時、天からの声を聞いたのです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」との声を。それはパウロが憎んでいたイエスさまの声でした。イエスさまが点から声をおかけになったのです。それはパウロを裁くためではありませんでした。パウロをゆるして回心させるためだったのです。

 こうしてキリスト教を迫害していたパウロは、180度の人生の転換をして、キリストの伝道者となりました。それは、天に昇られたキリストが、天から現れてくださるという奇跡があったからです。そしてキリストがそのようにパウロに現れたのは、ただパウロがイエスさまの存在を信じるようになるためというのではありませんでした。パウロがイエスさまを信じて、教会につながり、さらに教会の伝道者となるためでした。

 そのように、主の御業というものは、人が教会に導かれ、さらに教会を主の御心に従って建てていくために現れるものです。


教会と共にあるキリスト


 ヨハネによる福音書15章15節で、イエスさまが次のようにおっしゃっておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」‥‥イエスさまがぶどうの木で、私たちはその幹につながっている枝であると。幹につながっていなければ、ぶどうの枝は枯れてしまいます。実を結ぶことがありません。そのぶどうの木というのが教会です。ここにイエスさまは、すべての人を招いておられるのです。

 また、教会がキリストの体であるというのですから、キリストは教会を通して、この世の中で御業をなしたもうのです。主は教会を通して、この世の中で働かれる。その主の偉大な働きを見ることのできるのも教会です。私たちはそのようなキリストの体なる教会に召されているのです。さらに多くの人にキリストの働きが現れ、教会へ導かれるように祈ってまいりたいと思います。



(2011年10月9日)

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